メロンパン56
20歳学生のブログ。目指せ普通の日記。
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日記再開! 理論武装!
最近の自分の文章力に不満を感じて、こりゃあいかんとついに再開メロンパン! 56!

お疲れ様です。ヒロキです(何事もなかったかのように)
というかまあ、すみません。ついに放置1年超えましたね。
見てる人いねえんで別にいいんじゃねえかと思いますが、とりあえず自分にだけは謝ります。ごめん、ぼく。


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まあ、そんな感じで再開です。今回の目的は文章力アップなので、割と毎日更新したいなぁ、と思う所存。
その代わり、と言いますか。必然的に面白い出来事に出会えったり思いつかなかったりしても書くことになる訳で。
ネット公開にあたってはまさしく、ぼくの実力と度胸が試されます。ごくり。

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そんな感じでニッチの隙をついたらびっくりメロンパン56。
見てる人いたら逆にぼくがびっくりですが、今後はがんばる所存ゆえ、何卒ご贔屓に。


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暇な時に考えること
さて、暇だってことで更新だ。


世の中の大抵のものには価値があり、その中の大部分は別の物で代替可能である。
この場合の大抵のものとは実際にあるもの、例に出すなら今私の前にあるモニターでありキーボードであったりする。
代替可能である他の物とは、概ね金銭であろう。
ジュースならば120円で、モニターならば1万円少々だろうか。
当たり前というか、ありふれた話である。




だが、ここで述べたいのは、実際にないもの、金銭で置換できないものごとにもその対価があり、それを忘れてはならないとそういうことだ。

例えば。例えば、生活。私が営む学生生活に付随する様々なものごとにも対価はある。
友達と遊ぶこと、色々な場所に行くこと、演劇に参加すること、本を読むこと映画を見ることをゲームをすること……
というか遊ぶことばっかりじゃねえかと思われるだろうが、まさにそうした行為にこそ対価があるのだ。
金銭では決して計れない、対価が。




私に提案がある。
この価値をもっと普遍的にするべきだ。その対価はもっと厳正に表現されるべきだ。
そのために、新しく次のような通貨を作りたい。




今は円でもドルでも計れないその通貨の名前を、私はこう呼びたい。
タンイ、と。

タンイは学生だけに通用する通貨である。
非常に変動し易いが、だいたい5サボリで1タンイに相当すると思われる。セントとドルみたいな物と思ってもらっていい。
ちなみに私の地域では124タンイで1ソツギョウである。ソツギョウは学生以外にも通じる通貨で、言わば国際通貨である。マルクとユーロみたいなものだと思ってもらっていい。

この通貨が正式に採用され、NASDACなどで取引され始めた場合にはその経済効果はまさに計り知れない。間違いなく世界経済を潤わせることが、出来る。
1タンイ=12000円くらいでも尚円安に感じられる。こぞって人々はこの通貨を求めるだろう。低迷する日本経済を救うにはこれしかないっていうか俺が買います20タンイくらい
駄目ですか。いやでもホントお願いしたい俺困ってるから。




あ、ちなみに暇な時にはこんなことばっかり考えている。
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歩くこと
久々の日記。書いてない間に20歳から21歳になった。
だからじゃないが、ちとスタイル変更。



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授業の後に、今日もやっぱり、病院へ行こうと思った。

電車で地元へ戻って、3分歩いて病院へ。
階段を3階分上って爺ちゃんの病室へ。



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病室で俺は爺ちゃんに色んなことを話す。ガッコのことにサークルのこと教習所のこと。
あとは、21歳になったこと。
本当は一昨日にも話したのだけれど、そこは勘弁してもらおう。
返事はあるけど、意味はあんまり通らない。


そんで、爺ちゃんもいろんな事を話すので、俺は相槌を打ちながらそれを聞く。
時系列がバラバラだったり、何十年も前の話題だったりするし、何より同じ話が何回も出てきたりするので、俺はよく苦笑する。
でもまあ、ちゃんと聞く。爺ちゃんと話せるのはとても嬉しい。



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それから、最近の爺ちゃんのマイブームに付き合う。
病院の廊下を歩くことだ。


ちなみに爺ちゃんはもう足とかメチャクチャ細くて、ろくに歩けない。けど歩く。
歩かなくても車椅子使えばいいんだし、ほんと言うと爺ちゃんが歩く必要なんてもうどこにもないんだけど、でも爺ちゃんは歩く。
爺ちゃんが自分で決めたからだ。
多分、それはただの意地なのだろうけれども、でも爺ちゃんは歩くことにしたらしい。


距離は、この前と同じに病院の廊下を2周。
10メートルもない廊下を2周するのがが今の爺ちゃんの限界で、それも多分もうすぐ1周になる。
半周で限界が来て病室に戻れなくなる日もきっと来る。
でも、爺ちゃんは意地を見つけたら最後まで意地を通す。
きっと歩けなくなるまで歩く。


必死に歩く爺ちゃんを見て、看護師さんが大丈夫ですかと言う。
爺ちゃんは足とか絶対大丈夫じゃないのに、大丈夫だと答える。



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杖を使い、手すりを掴み。世話かけてすまんなあ、と俺に謝りながら。
自分の足でヨロヨロと歩く爺ちゃんは、本当に立派だ。


この人の孫であることが俺の誇りだなと本気でそう思う。
自省録7
少々前に、人間関係で悩んでいると後輩が言っていた。
その後、少々壮大な話に発展して自他の認識(感覚)の断絶の話をした。
自分と他人は違って、そして他人にはなれぬのだから相互理解というのは不可能なのだと、そういう話だ。
だからこそ登場人物たちが純粋に分かり合えるフィクションに憧れたりするのではないか、と後輩は言った(そしてだからマンガとかゲームが好きなのであって、自分は2次元萌えとかそういうのでないというのが彼の弁である。それはどうだろう)

青臭い話になりそうだなあと感じつつ、そうかなあ、と思う。
いやそりゃそうだと思うが、別にそれでいいじゃん。
今日はそんなことをつらつらと考えていた。

俺もここ最近失敗(主に人間関係で)が続いている。先日から反省というかいろいろ考えているが、なかなかまとまらない。

そもそも、失敗もしくはミスというのは何か。
それはやるべき事をしない、もしくはしてはいけない事をすることである。
それは大きく2つに大別できる。
分かっててやっちゃうものと、後から気づくものだ。

分かっててやっちゃうのは、まあそのままだ。やるべきだと分かっているのにやらない、やってはいけないと分かっているのにやっちゃう、とかそういうミスである。
テスト前だから勉強しなきゃいけないのに、漫画を読んじゃう。
我慢しなきゃいけないのに、ついキレてしまう。
その原因は欲求であり、感情であり、まあ義理やら都合やら場の勢いなどであるかも知れぬ。
これを防ぐ、ということばっかりは最早自制心が持つかどうかとそれだけの話でしかない。

後から気づくというのは、読んで字の如く。何かアクションを起こした後に、自分の想定したリアクションと現実の結果が異なるときに発生する。
人間関係という問題に関していうならば、まあなんだ、まさかそんな風に取られるとは思わんかったとかそういう場合のことである。時によりけりではあるが、ミスというよりも避け得ぬ事態といった方が適切な場合の方が多いかも知れぬ。
主な原因は想像力の欠如、もしくはその偏りである。要は相手がどう取るかを考えずにやってしまうミスであり、相手が自分と同じ様に感じている筈だという思い込みからやってしまう。
然るに(いや、実例はやめよう。気が滅入る。)

どちらも避けがたいものであろう。というか、どうにもならぬことだってある。だって人間だし。
相手次第、状況次第ということもある。酔ってたり、ヘコんでたりで自分をコントロールできないこともあろう。
だが。無くすことはできぬかもしれんが、だがその発生を極限することはできる。
確率的に起こることは避けられぬが、その原因を殺すことで起こる頻度を限界まで低減することは、きっとできる。努力することさえ忘れなければ。
なんの財産もなく名誉もなくとも別にそんなことは構わない。ただ、その努力を忘れたくはないなと思う。怠れば悪意なくとも他人を不快にし、人間関係をギスギスさせる人間になってしまうだろう。(というか今現在そうなのだろうきっと)

その努力とは自制することであり、穏やかを心がけることである。目を凝らし、耳を澄まして相手の心を考えることである。それは思いやりを忘れぬことで、自分とは違う他人と上手くやっていく唯一の手段だ。
要は、別に分かり合えんでも仲良くすることはできるだろうとそういう話だ(ああ、やっぱ青臭くなった)
携帯さんパリへ行く
いや、パリへ行ったかは知りませんが携帯なくしました。
変えたばっかりなのにちくしょう!
(とはいえ、けっこう気楽でいいなあ携帯レスライフ)


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